放射強度や形状などが変化する変動天体の研究を行う天文学の分野。時間軸天文学ともいう。一般には変化の時間スケールが「秒」から「年」程度までの短いものを対象とするが、より長い時間で変化する天体を含めることもある。よく知られている対象は新星、超新星、ガンマ線バースト、重力波対応天体などの突発天体(トランジェント天体)である。しかし、周期的あるいは準周期的な変化を示す変光星、Tタウリ型星、パルサー、活動銀河核なども対象である。太陽系、銀河系(天の川銀河)から遠方宇宙までさまざまな場所にあるこうした変動天体を対象として、その天体の性質、変動のメカニズム、進化などを明らかにするのが時間領域天文学の目的である。
肉眼で空を見ていた時代には、夜空の星々は(日周運動は別として)その位置や明るさはほとんど変わらないように見えた。惑星を除けば、変動天体は歴史書にいくつかの記載例があるだけで極めて希であった(かに星雲を参照)。しかし観測技術が進歩して、とくに広い天域を調べるサーベイ観測が行われはじめると、以前の観測データとの比較から、さまざまな種類の多くの変動天体が発見されるようになった。更に、可視光以外の波長域でのサーベイ観測が行われるようになると、X線新星やガンマ線バーストなど変動の時間スケールが短い新しい種類の変動天体も見つかった。更に2017年には約1.3億光年の距離にある銀河NGC4993から、中性子星同士の連星が合体して発生した重力波(GW170817)が検出され、そのすぐ後に、可視光を含む全ての電磁波において爆発現象(キロノバ)が観測された。
2000年頃から多数見つかってきた多様な変動天体の研究においては、観測には国際協力が不可欠であること、多波長の観測の総合的な解釈が必要なこと、莫大なデータの解析手法の研究も活発になったこと、などの背景から、時間領域天文学という概念が次第に形作られてきた。こうして2015年には、国際天文学連合(IAU)ホノルル総会で、時間領域天文学のワーキンググループが設立された。
時間領域天文学の基礎である変動天体のサーベイは、時間分解能と観測期間(どのくらいの頻度でどのくらいの期間観測するか)、サーベイする天域の広さ、および限界等級(どれだけ暗い天体まで観測するか)の三つのパラメータで特徴付けられる。これらはお互いに独立ではないので、研究目的によって、中小口径望遠鏡による短時間の反復観測、時間間隔は少し開くが大口径望遠鏡による暗い変動天体の探査などさまざまな観測形態が取られる。1時間程度以下の時間分解能と一晩以上の観測期間を必要とすれば、複数の国で経度の異なる場所にある望遠鏡の協力が不可欠となる。そのためには、興味ある変動天体を発見したらすぐに、その情報を世界中の天文台に発信するネットワークの構築が必要となる。また、迅速な発見のためには、ビッグデータの新たな解析方法が必要であり、時間領域天文学は情報科学と密接なつながりを持つようになっている。変動天体のサーベイでは、放射強度だけでなく天球上での位置が変動する天体も検出されるため、その研究を時間領域天文学に含めることもある。
変動天体の観測を行う望遠鏡の例として、可視光のPanSTARRS、LSST(ベラルービン天文台)やラスカンブレス天文台、電波のLOFARとSKA、X線のMAXI衛星、ガンマ線のニール・ゲーレルス・スイフト天文台などがある。また、変動天体探査に特化した高性能カメラの例として、パロマーシュミット望遠鏡の「ツビッキートランジェント天体探査装置(ZTF)」のカメラ(42平方度の視野を60秒以下の時間分解能で撮影可能)と、東京大学木曽観測所のシュミット望遠鏡のカメラ「トモエゴゼン」(20平方度の視野を0.5秒の時間分解能で撮影可能)がある。これらのサイトのURLを以下に掲げる。時間分解能60秒以下の広天域変動天体探査は始まったばかりで、今後の発展に大きな関心がもたれている。
国際天文学連合(IAU)の「時間領域天文学」ワーキンググループ
https://www.iau.org/science/scientific_bodies/working_groups/260/
PanSTARRS(Panoramic Survey Telescope And Rapid Response System)
https://www2.ifa.hawaii.edu/research/Pan-STARRS.shtml
ベラルービン天文台(Large Synoptic Survey Telescope)
https://www.lsst.org/
ラスカンブレス天文台
https://lco.global/
LOFAR(Low-Frequency Array)
http://www.lofar.org/
SKA(Square Kilometer Array)
https://www.skatelescope.org/science/
MAXI衛星(Monitor of All-sky X-ray Image)
http://maxi.riken.jp/top/index.html
ニール・ゲーレルス・スイフト天文台(スイフト衛星)
https://swift.gsfc.nasa.gov/
ZTF(Zwicky Transient Facility)
https://www.ztf.caltech.edu/
「トモエゴゼン」(Tomoe-Gozen)
http://www.ioa.s.u-tokyo.ac.jp/kisohp/NEWS/pr20190930/pr20190930.html
ホールトン・アープ(Halton Christian Arp;1927-2013)はアメリカの天文学者。ニューヨークに生まれ、1949年にハーバード大学を卒業、1953年にカリフォルニア工科大学からPh.Dを取得。銀河、特に特異銀河の分類ならびにクェーサーの大きな赤方偏移は遠方にあるためではないという主張で知られている。1966年、通称『アープアトラス』(Atlas of Peculiar Galaxies)と呼ばれる特異銀河の写真集を発表。環状のものや、二つ以上が相互作用しているような変形した銀河など338例を集めた。クェーサーの近傍に通常の銀河がしばしば見られることから、クェーサーは必ずしも遠方の天体ではなく、通常の銀河との力学的作用で高速運動をするようになったものという独特の説(1998年にSeeing Red: Redshifts, Cosmology and Academic Scienceを出版)を唱えたが、ビッグバン宇宙論と抵触することから、否定的見方をする人が多い。ウィルソン山天文台およびパロマー天文台で29年に及ぶ研究生活を送った後、ドイツのマックス・プランク研究所に所属、2013年12月にミュンヘンにて86歳で永眠。
アープの公式ホームページ: http://www.haltonarp.com/
New York Timesの追悼記事: https://www.nytimes.com/2014/01/07/science/space/halton-c-arp-astronomer-who-challenged-big-bang-theory-dies-at-86.html
アントワネット・ドゥ・ボークルール(Antoinette de Vaucouleurs; 1921-1987)はフランス生まれの天文学者。ジェラルド・ドゥ・ボークルール夫人。まだ女性天文学者が少ない時代に夫とともに世界的に知られた業績を挙げた。
アントワネットはパリ生まれ。ソルボンヌ大学で数学、物理学、天文学を学んだ。1944年にジェラルド・ドゥ・ボークルールと結婚以来、長年二人は良い研究のパートナーとなった。パリの天体物理学研究所で実験室分光学から研究を始めたが、ジェラルドとともにイギリス、オーストラリア、アメリカのローウェル天文台、ハーバード大学天文台と研究場所を移した。二人は1960年に新しく出来たテキサス大学の天文学科に移ってからは生涯そこで研究生活を送った。
オーストラリアでは数100個の早期型星(B, A, F型)のMK分類を行い、多くの星のカルシウムK線の等価幅を測定した。またジェラルドとともに、大マゼラン銀河の吸収線の観測から構成する星の種族を調べた。1958年にはローウェル天文台で、いくつかのセイファート銀河の中心核が1ヶ月程度の間に変光することに気がついた。これは後に多くの人の観測によって確認された。
アントワネットは非常に注意深く、多くの論文にあるミスプリや天体の同定間違いなどを見つけて訂正することに類い希な才能を持っていた。彼女のこの才能は、夫妻が中心になってまとめた、時代ごとに銀河天文学の基本参照文献となった三つのカタログ(First, Second, Third Reference Catalogue of Bright Galaxies; それぞれRCBG(あるいはRC1), RC2, RC3と略称される)の完成に不可欠なものであった。RC3の制作中に骨髄がんと診断されたが、彼女は死の10週間前まで苦痛の中で自らの作業を行った。RC3は彼女の死後1991年に出版された。
Physics Todayの追悼記事:
https://physicstoday.scitation.org/doi/10.1063/1.2811515
Antoinette de Vaucouleurs Memorial Lectureship:
http://www.as.utexas.edu/lectures/adv.html
マーク・アーロンソン(Marc Aaaronson; 1950-1987)はアメリカの天文学者。キットピーク天文台の4mメイヨール望遠鏡で観測中の事故で死亡した。
アーロンソンはロスアンジェルスで生まれ、カリフォルニア工科大学を卒業後、1977年にハーバード大学で学位を得た。学位論文は銀河観測用の近赤外測光装置を開発し、それを用いて渦巻銀河の近赤外での性質を調べたものだった。
学位取得後にアリゾナ大学スチュワード天文台でポスドクの職を得た。そこでハクラやジャーミー・ムールド(Jeremy Mould)らとともに、近赤外線でタリー-フイッシャー関係を再構築する研究を始めた。渦巻銀河の距離指標関係式として提案されたタリー-フイッシャー関係が、Bバンドでの銀河の明るさを用いているために生じる不定性を避けるためであった。近赤外タリー-フィッシャー関係を用いて多くの渦巻銀河の距離を求めた結果、1986年までにアーロンソン達は、おとめ座銀河団への落ち込み運動を高い精度で検出し、大きな空間スケールで見たハッブル定数H0をおおよそ91kms-1Mpc-1と求めた。さらに、宇宙マイクロ波背景放射に対する局所銀河群の運動が、おとめ座銀河団への落ち込み運動と局所超銀河団が全体としてうみへび-ケンタウルス座超銀河団方向に引き寄せられている運動との合成(ベクトル和)で説明できることを示した。これはルービン-フォード効果(ルービンを参照)に始まる銀河の大規模な特異運動(bulk motionあるいはstreaming motionと呼ばれる)の研究に大きな影響を与えた。亡くなった時点において彼は、ハッブル宇宙望遠鏡で銀河の距離を決定するプロジェクトのリーダーであった。このほかにもアーロンソンは近赤外線での観測から多くの業績を上げた。ムールドらとともに、大マゼラン銀河や局所銀河群の矮小銀河中に、中間年齢の星である炭素星を発見した。また、矮小銀河の炭素星の分光観測から速度分散を求め、これらの矮小銀河にも大量のダークマターが含まれていることを示した。
アーロンソンは、1987年4月30日の夜メイヨール望遠鏡で観測中に、空の様子を見にキャットウォークに出ようとして、回転が止まりきっていないドームと扉に挟まれるという悲劇的な事故で36歳の若さで世を去った。アリゾナ大学は彼を記念するMarc Aaronson Memorial Lectureshipを設立している。
Physics Todayの追悼記事:
https://physicstoday.scitation.org/doi/10.1063/1.2811514
Marc Aaronson Memorial Lectureship:
https://www.as.arizona.edu/aaronson_lectureship
ジョン・ハクラ(John Huchra; 1948-2010)はアメリカの天文学者。アメリカのニュージャージー州のジャージー市で、列車車掌の父と主婦である母の元に生まれた。1970年にマサチューセッツ工科大学で物理学を学び、理論家を目指してカリフォルニア工科大学に進んだがすぐに観測天文学に関心を移し、天文学の学位を得た。1976年にハーバード-スミソニアン天体物理学研究センターにポスドクとして赴任して以来、生涯そこで研究生活を送った。
近赤外線による銀河の観測が本格化した1970年代の終わり頃から、マーク・アーロンソン(Marc Aaronson)やジャーミー・ムールド(Jeremy Mould)らとともに、近赤外線での銀河の明るさを用いたタリー-フィッシャー関係の構築を進め、これを距離指標関係式として多数の銀河の距離を求めた。その結果1986年に、ハッブル定数H0をおおよそ91kms-1Mpc-1と求めたことに加え、宇宙マイクロ波背景放射に対する局所銀河群の運動が、おとめ座銀河団への落ち込み運動と局所超銀河団が全体としてうみへび-ケンタウルス座超銀河団方向に引き寄せられている運動との合成(ベクトル和)で説明できることを示した。これはルービン-フォード効果(ルービンを参照)に始まる銀河の大規模な特異運動(bulk motionあるいはstreaming motionと呼ばれる)の研究に大きな影響を与えた。ハクラはその後もハッブル宇宙望遠鏡のキープロジェクトのメンバーとしてハッブル定数の決定に貢献した。
ハクラのもう一つの顕著な業績は宇宙の大規模構造を描き出したことである。1979年よりマーク・デービス(Marc Davis)らとともに大規模な銀河の赤方偏移サーベイの嚆矢となった第一次ハーバード-スミソニアン天体物理学研究センターサーベイ(CfA-Iサーベイ)を行い、後にはマーガレット・ゲラ-(Margaret Gellar)らと限界等級を1等暗くした第二次サーベイ(CfA-Iサーベイ)を行った。その結果から見え始めたフィラメント状構造やボイドや超銀河団からなる大規模構造、とくに「万里の長城(The Great Wall)」と呼ばれた構造は、その後の赤方偏移サーベイの大流行のきっかけとなった。
ハクラは謙虚な性格で非常な努力家であった。学部時代には、トラックの荷下ろしで学費を稼いだ。「天体物理学で身を立てられなかったらトラックの運転手ができる」と言って、ハーバード大学教授、アメリカ科学アカデミー会員になってもトラック運転手労働組合の組合費を払い続けた。友人のロバート・カーシュナー(Robert Kirshner)は、「私の知る限り、彼はだれよりも1日に働く時間が多く、1年間の観測時間が多かった」と述べている。近赤外タリー-フィッシャープロジェクトでは1年間に130夜観測したと言われている。アメリカ天文学会会長、国際天文学連合アメリカ代表などを務め、2010年のdecadal surveyでも重要な役割を果たした。
ネイチャー誌の追悼記事
https://www.nature.com/articles/468174a
量子力学において、運動する物質一般に付随する波動のこと。量子力学の中心概念の一つである粒子と波動の二重性(wave-particle duality)を表す。光子の粒子性と波動性を結びつけるために導入された概念を、1925年にフランスの物理学者のルイ・ド・ブロイ(Louis de Broglie)が物質粒子一般に拡大して提唱したので、ド・ブローイ波とも言う。ド・ブローイ波長も参照。
ニールス・ボーア(Niels Bohr; 1885-1962)はデンマークの理論物理学者。1885年、デンマーク、コペンハーゲン生まれ。1903年、コペンハーゲン大学入学。その後、ケンブリッジ大学、マンチェスター大学に留学する。マンチェスター大学時代、原子の太陽系模型で有名なアーネスト・ラザフォード(Ernest Rutherford)の影響によって原子模型の研究を始める。帰国後の1913年、従来の原子模型での電子の安定性や観測されている原子のスペクトルを説明するために、原子の中で電子は量子条件を満たす特定の軌道しかとらないこと、軌道間を電子が遷移するときのみ電子は光子を放出、吸収するという原子模型を提案して、量子力学の先駆けとなった。ボーアの量子条件とは、電子を物質波と見たとき、波長の整数倍が軌道長となるとう条件である。
1921年、コペンハーゲンに理論物理学研究所(現ニールス・ボーア研究所)を開き、ヴェルナー・ハイゼンベルグ(Werner Heisenberg)、ディラック、レフ・ランダウ(Lev Landau)など多くの研究者を集め量子論研究の一大拠点を形成して量子力学形成の指導的役割を果たした。1922年、「原子構造と原子からの放射に関する研究への貢献」によってノーベル物理学賞を受賞した。息子のオーゲ・ニールス・ボーア(Aage Niels Bohr)も物理学者で、1975年、原子核物理学の分野でノーベル物理学賞を受賞している。
ポール・ディラック(Paul Dirac; 1902-1984)はイギリスの理論物理学者。1902年、イギリス、ブリストル生まれ。1921年にブリストル大学に入学し電気工学を専攻するが、翌年、ケンブリッジ大学に進学し物理学を専攻した。
1925年、ヴェルナー・ハイゼンベルグ(Werner Heisenberg)の行列力学、エルビン・シュレ-ディンガ-(Erwin Schrödinger)の波動力学を統一する形で量子力学を提唱した。この研究で一点でのみ無限大の値をもつという形式的な関数であるデルタ関数を導入し、これがのちに数学での超関数の理論に発展する。1927年、電磁場の量子化を定式化し、場の量子論の発端となる。1928年、相対論的な電子の波動方程式としてディラック方程式を提案し、負のエネルギー状態に対して空孔理論を提唱する。最初この空孔を陽子と同定するが、空孔の質量が電子と同じであることから後に電子の反粒子の存在、粒子と反粒子の対生成、対消滅の存在を予言した。この反粒子は1932年、カール・アンダーソン(Carl Anderson)によって宇宙線中に発見され陽電子と命名された。また電子の波動関数としてスピノル量が導入された。1931年、単独な磁荷をもった磁気単極子の存在を予言し、その存在から電荷の量子化が導かれることを示した。1937年、陽子と電子の間の電磁気力と重力の強さの比などさまざまな量の中に、10の40乗という数値が現れることが偶然ではないという大数仮説を立てた。
1933年、シュレ-ディンガ-とともに「量子論の新しく有効な形式の発見」によってノーベル物理学賞を受賞。長年、ニュートンが初代であったケンブリッジ大学のルーカス教授職にあったが、1970年からフロリダ州立大学に移り、1984年に亡くなるまで務めた。
グスタフ・タマン(Gustav Tammann; 1932-2019)はドイツ生まれの天文学者。ゲッチンゲンに生まれ、第二次世界大戦中はババリア地方などに住んだが終戦後母親の生まれ故郷であるスイスのバーゼルに戻った。バーゼル大学で天文学を学んだ後、アメリカのウイルソン山-パロマー天文台に移り、その後1972年にハンブルグ大学の教授となった。1977年から2002年までバーゼル大学の物理・天文学科の教授と天文研究所の所長を務めた。ドイツ天文学会の会長も務めた。
タマンは超新星の研究から、Ⅰa型超新星を標準光源として宇宙の距離尺度(ハッブル定数)を決める方法を提唱したパイオニアである。1963年に、ハッブルの後継者であるサンデージとパロマー天文台の200インチヘール望遠鏡を用いてハッブル定数決定のための共同研究をはじめた。新たな標準光源とその校正に基づく宇宙の距離はしごを使って1976年にハッブル定数(H0)が50±4 km s-1 Mpc-1であるとする論文を発表した。この値に対応する宇宙年齢は約200億年である。従来の学界のコンセンサスである約100億年の2倍であったことから大きな論争を巻き起こした。その後フランス人でテキサス大学で研究をおこなったドゥ・ボークルールが、広範な観測データに基づいてH0=100±10 kms-1Mpc-1とする論文を1979年に出版し、H0=50(long distance scale:長い距離尺度)か100(short distance scale: 短い距離尺度)かの論争が20年以上に渡って繰り広げられた。
タマンがサンデージとともに1981年に刊行した'A Revised Shapley-Ames Catalog of Bright Galaxies'は、シャプレーとエイムズが1932年に刊行した初めての銀河だけのカタログ(シャプレー-エイムズカタログ)を新しいデータに基づいて改訂したもので、約13等より明るいほぼ全ての銀河1246個に対して、明るさと形態分類に加えて距離を掲載した画期的なカタログであった。このカタログは局所超銀河団の構造の研究やフィールド銀河の光度関数の研究の基礎となった。
スイス物理学会の追悼記事
https://www.sps.ch/en/archiv/nachrufe/in-memoriam-gustav-andreas-tammann
ロス卿を参照。
日本の天文学者(1889-1959)。1913年に京都帝国大学物理学科を卒業後、水沢国際緯度観測所で観測に従事する。1920年、東亜天文学会を結成し、雑誌「天界」を創刊した。1925年京都帝国大学教授、1929年には花山天文台の初代台長となる。1935年より、国際天文学連合黄道光委員会委員長を務めた。『星座の親しみ』(警醒社 1921)、『天體と宇宙』(偕成社 1941)、『星座とその伝説』(恒星社厚生閣 1969)など多数の著書がある。私費で1940年に山本天文台を創設、この天文台に集った中から多くのアマチュア天文家が輩出するなど、天文学の普及に努めた。
日本の天文学者(1873-1938)。京都帝国大学宇宙物理学教室の創設者、第8代京都帝国大学総長。日本における天体物理学のパイオニアの一人。1895年に東京帝国大学物理学科卒業後大学院に進学、田中館愛橘、長岡半太郎らとともに重力測定や地磁気測定に従事した。1900年に京都帝国大学助教授に就任し、1905〜1907年にドイツのゲッティンゲン大学に留学、シュワルツシルトによる天体物理学の講義を受け、強い感銘を受けた。1918年に従来の日本にはない新しい天体物理学を研究する宇宙物理学講座を京都帝国大学に創設し、主任教授となった。恒星の進化や変光星、連星などの天文学研究のほか、東洋天文学史の研究も行ない『東洋天文学史研究』(1928)を著した。
スティーブン・ホーキング(Stephen Hawking; 1942-2018)はイギリスの理論物理学者、数学者。相対性理論、量子力学を用いた時間と空間の性質に関する研究で有名。オックスフォードに生まれ、幼少の頃から数学と物理学にすぐれた才能を示した。オックスフォード大学で熱力学、相対性理論、量子力学に興味を持ち、1962年、ケンブリッジ大学大学院に進んだ。博士課程在学中、筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断されたが研究を続け、すぐれた業績を上げた。1974年、史上最年少の32歳でイギリス王立協会会員となり、1979年には、かつてニュートンが就いたケンブリッジ大学ルーカス記念講座教授に選出された。
1960年代の後半、ロジャー・ペンローズ(Roger Penrose)とともに特異点定理の証明を行ない、1970年、量子力学を用いてブラックホールの性質の研究に着手し、1974年、ホーキング放射によるブラックホールの蒸発理論を提唱した。次いで宇宙論に量子力学の手法を適用し、第一の業績である特異点定理を乗り超えて、無境界条件仮説を提唱した。国際的なベストセラーとなった「A Brief History of Time(邦題:ホーキング、宇宙を語る)」をはじめ、いくつかの一般向け科学書を執筆している。また、2004年には、ブラックホールの蒸発の際、内部にある物質の情報は消えてしまうとしていたが、情報が漏れる可能性があることを発表している。2018年、ケンブリッジの自宅にて74歳で永眠。「車椅子の天才物理学者」とも称せられる。
その半生は2014年公開のイギリス映画「The Theory of Everything(邦題:博士と彼女のセオリー)」に描かれている。
公式ホームページ http://www.hawking.org.uk
英国王立協会による追悼文 https://royalsocietypublishing.org/doi/10.1098/rsbm.2019.0001
ジェラルド・ノイゲバウアー(Gerald Nuegebauer; 1932-2014)はアメリカの天文学者。ドイツに生まれ7歳でアメリカに移住、1954年にコーネル大学卒業、1960年にカリフォルニア大学からPh.Dを取得。1962年、カリフォルニア工科大学の物理学の教官となり、1965年、準教授となる。ウィルソン山天文台とパロマー天文台で、1969年にロバート・レイトン(Robert Leighton)とともに、口径1.6メートルのプラスチック鏡を用いて赤外線の2ミクロン領域で赤緯−33度〜+82度の天域を掃天し(2ミクロンサーベイ)、2万個にものぼる赤外線源を検出、その一部をIRCカタログとして発表した。1967年、エリック・ベックリン(Eric Becklin)とともに、オリオン星雲中の赤外線天体ベックリン‐ノイゲバウアー天体(BN天体)を発見した。その後も赤外線での観測研究を続け、1970年、カリフォルニア工科大学の物理学教授、1981年〜1994年までパロマー天文台の台長を務めた。
Thomas Soiferによる米国科学アカデミーの追悼記事
https://www.nasonline.org/wp-content/uploads/2024/06/neugebauer-gerry.pdf
アングロ-オーストラリア望遠鏡に多天体分光器 2-degree Field(2dF)を付けて1997年から2001年まで行われた銀河の赤方偏移サーベイ。2-degree Field Galaxy Redshift Survey を略して 2dFGRSと略称される。UKシュミット望遠鏡による南天のサーベイ観測で得られた写真乾板のデジタル処理(APM サーベイ)で検出された銀河のうち、19.5等までの22万個の銀河の赤方偏移を測定した。スローンデジタルスカイサーベイに先駆けて結果を出し、広天域の銀河の赤方偏移サーベイに大きなインパクトを与えた。
アラン・サンデージ(Allan Sandage; 1926-2010)はアメリカ生まれの天文学者。カーネギー研究所で銀河やクェーサーの研究を行い、観測から膨張宇宙モデルのパラメータ、とくにハッブル定数の決定に貢献した。20世紀を代表する観測天文学者の一人である。
アイオワ州アイオワシティ生まれ。父親の仕事の関係で少年期はペンシルベニア州やイリノイ州で過ごした。フィラデルフィアにいた11才頃に友人の影響で天文学に興味を持ち、10代で「パロマーの巨人望遠鏡」やハッブルの書いた「星雲の領域」など多くの天文書籍を読んだ。1943年にオハイオ州オックスフォードにあるマイアミ大学で物理を学んだが、兵役で中断後イリノイ大学に移り、卒業後カリフォルニア工科大学の大学院に入学した。そこで研究の手伝いを探していたハッブルに出会い、ハッブルの後継者としてのキャリアが始まった。1953年の学位論文は球状星団の色-等級図に関するもので、指導教員はバーデであった。これは後に、主系列の転向点からさまざまな星団の年齢を推定し宇宙年齢との整合性を議論する研究分野の基礎となった。
星の金属量と軌道運動特性の相関関係に基づいて、エゲン(Olin Eggen)、リンデンベル(Donald Lynden-Bell)と共著で1962年に出版した論文は、観測から銀河系(天の川銀河)の形成過程を探る初めての本格的論文であった。この論文で提唱されたのは、「約100億年前に、巨大なガス雲が数億年以下という短い時間で、少なくとも1/10(動径方向)ないし1/25(動径に垂直方向)に重力収縮する中で星が生まれて銀河系ができた」という描像で、著者の頭文字をとってELSモデルと呼ばれこの分野の草分けとなった。その後、1978年にはサール(Leonard Searle)とジン(Robert Zinn)により、銀河系はもっと長い時間をかけたゆっくりした重力収縮でできたとするモデルが登場し両者の論争が続いた。現在では、ELSモデルの基になったデータには選択効果があり、その描像には正確でない面がある事が分かっている。
1953年のハッブルの突然の死後、サンデージはハッブルの後継者として、主にパロマー天文台の5mヘール望遠鏡を使って銀河と宇宙論の研究を進めた。1956年にはハマソン(Milton Humason)、メイヨール(Nicholas Mayall)らと多数の銀河の赤方偏移(後退速度)を測定し、ハッブル-ルメートルの法則の傍証となる論文を発表した。また、ハッブルの未発表のノートにあったアイデアに基づいて出版した「The Hubble Atlas of Galaxies」は、銀河の形態分類の体系を代表的な銀河の写真とともに解説したもので、当時の銀河研究のバイブル的な存在であった。
サンデージとハッブルは、1950年代から膨張宇宙モデルのパラメータであるハッブル定数と減速定数を決める研究を構想し観測をはじめていた。ハッブルの死後この研究は、1960年代はじめにドイツ人の天文学者タマンの協力を得て発展した。新たな標準光源とその校正に基づく宇宙の距離はしごを使って1976年にハッブル定数(H0)が50±4 km s-1 Mpc-1であるとする論文を発表した。この値に対応する宇宙年齢は約200億年である。従来の学界のコンセンサスである約100億年の2倍であったことから大きな論争を巻き起こした。その後ドゥ・ボークルールが広範な観測データに基づいてH0=100±10 km s-1 Mpc-1とする論文を1979年に出版し、H0=50(long distance scale: 長い距離尺度)か100(short distance scale: 短い距離尺度)かの論争が20年以上に渡って繰り広げられた。この論争の中で、宇宙モデルの決定に関して、銀河の進化の理解(E補正)が決定的に重要である事が明らかになった。また、サンデージとタマンは1981年に、銀河の距離を掲載した初めてのカタログ「A Revised Shapley-Ames Catalog of Bright Galaxies」を出版した。このカタログは局所超銀河団の構造やフィールド銀河の光度関数の研究の基礎となった。
1970年代末からビンゲリ(Bruno Binggeli)、タマンらとラスカンパナス天文台の2.5 m望遠鏡を使って写真によるおとめ座銀河団のサーベイ観測を行い、2000個以上の銀河団メンバーを検出しカタログ(Virgo Cluster Catalog: VCC)を作った。このラスカンパナスサーベイは、その後のおとめ座銀河団研究の基礎となるデータを提供したことに加え、局所銀河群以外にも矮小銀河が普遍的に存在すること、矮小楕円銀河と巨大楕円銀河は面輝度分布すなわち内部構造が異なることを示した。サンデージはまた、クェーサーのスペクトルを多数観測したり、Ⅰa型超新星が良い標準光源となることを指摘するなど、宇宙論の基礎となる多くの観測を行った。
王立天文学会のエディントン・メダル(1963年)とゴールドメダル(1967年)、アメリカ国家科学賞(1970年)、太平洋天文学会ブルースメダル(1975年)、クラフォード賞(1991年)、グルーバー宇宙論賞(2000年)などを受賞。
David Devorkinによるアメリカ天文学会誌の追悼記事 Bulletin of the American Astronomical Society, Vol. 43, id.038
https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2011BAAS...43..038D/abstract
中国(中華人民共和国)が行っている一連の月探査計画(Chinese Lunar Exploration Program:CLEP)。嫦娥(じょうが:英語ではChang'e)とは中国の神話に登場する月に住む女性の名称で、「月の女神」あるいは「天女」という語義で使用されることもある。
嫦娥1号は、日本の「かぐや探査機」の1ヶ月後の2007年10月に打ち上げられ、200 km高度の極軌道から月全面の観測を行った。新しい観測機器としては、表面のレゴリスの厚さなどを調べるマイクロ波サウンダーがある。2009年3月1日に運用終了。嫦娥2号は1号のバックアップ機として同時期に開発が進められた。2010年10月に打ち上げられ、月周回の楕円軌道を取り、虹の入り江地域を高度20kmから撮像している。その後、2011年6月に月周回軌道を離脱して、太陽=地球のラグランジュ点(L2)に到達。しばらくL2に滞在したのち、2012年12月13日に小惑星 (4179) トータティスにフライバイを行い、高分解能の画像を取得した。
嫦娥3号は、2013年12月2日に打ち上げられ、12月14日に雨の海に軟着陸し、翌日にはローバー玉兎(ぎょくと)号を月面に降下させた。着陸船は放射性同位体熱電気転換器 (RTG) を電力源として長期間観測を行える一方、ローバーは太陽電池で駆動され、月面の撮像などを行った。何度か極低温となる夜間を耐え、約半年の間観測を行った。そして、電波を中継する衛星「鵲橋(じゃっきょう)」を地球=月系のラグランジュ点付近に展開させて、2019年1月3日、嫦娥4号は世界で初めて月の裏側に着陸した。「南極エイトケン盆地」内のフォンカルマン・クレーターへの軟着陸に成功し、さらにローバー玉兎2号を月面に展開した。2020年11月23日には嫦娥5号が打ち上げられ、12月1日に月面に軟着陸し、月の岩石や砂などのサンプルを約2㎏採取して地球への帰還の途につき、12月17日に大気圏再突入カプセルが内モンゴル自治区の雪原に無事着陸を果たしている。
これらに続く月探査機として、嫦娥6号が2024年5月3日に打ち上げられ、再び月の裏側の「南極エイトケン盆地」内のアポロ・クレーターを目指した。6月2日にアポロ・クレーターの南部へ着陸、サンプルを採取して6月4日に月面を離れ、6月25日にサンプルを収めたカプセルが内モンゴル自治区に着地、史上初めて月の裏側のサンプルが地球へもたらされた。月の裏側に着陸するためには通信中継衛星が必須となるが、中国は2024年3月に「鵲橋2号」を打ち上げており、直径4.2mの巨大なパラボラアンテナを備えた同衛星が月を周回しながら地球・月間の通信を中継した。今後は2026年ごろに「嫦娥7号」、2028年ごろに「嫦娥8号」と、さらなる月探査が計画されている。
日本の天文学者(1908-2013)。低温度星の分光学的研究の世界的権威。我が国における観測に基づく天体物理学、とくに天体分光学の発展の基礎を築いた。
福井県福井市生まれ。東京帝国大学理学部天文学科を卒業後東京天文台技手兼理学部助手となる。1939年(昭和14年)に、低温度星のスペクトルの多様性が、温度ではなく炭素、窒素、酸素の組成比(元素存在度)の違いによって理解できることを示して、東京大学より理学博士の学位を得た。サンフランシスコ講和条約締結前の1950年にアメリカに渡り、リック天文台とヤーキス天文台で分光観測と解析方法を研究した。この経験と持ち帰ったスペクトルのデータから、日本の低温度星の研究グループが生まれた。萩原雄祐とともに、東京天文台岡山天体物理観測所の188 cm望遠鏡の建設に尽力した。岡山での観測から、大部分の炭素星の炭素同位体比(12C/13C)が、CNOサイクルの平衡値(約4)よりも大きいことを示した。1960年にはカナダのドミニオン天文台のプラスケット望遠鏡(口径182㎝)、1972年と1974年にはウィルソン山天文台のフッカー望遠鏡(口径254㎝)とパロマー天文台の当時世界最大のヘール望遠鏡(口径508㎝)など、まだ日本では珍しかった時代に海外の大望遠鏡による観測を行った。
1951年に東京大学理学部教授となり、1955年には「低温度星の分光学的研究」に対して日本学士院恩賜賞が授与され、1965年には学士院会員に選出された。東大闘争の最中に東京大学評議員を務め、1969年に東京大学を定年退職した。在職中に日本天文学会理事長、日本学術会議天文学研究連絡委員会委員長などの要職を務めた。東京大学定年後は1984年まで東海大学で研究と教育にあたった。1979年に福井市名誉市民、1996年には文化功労者となった。また1994年から2000年まで日本学士院長を勤めた。1997年の国際天文学連合京都総会に当たっては、募金委員長としてその開催に尽力した。
2002年にはハワイ島マウナケア山頂にあるすばる望遠鏡で観測するなど、終生研究への情熱を持ち続けた。低温度星以外にも日食には強い関心をもち、2009年7月22日に硫黄島近海で船上から観測するなど、計7回の皆既日食を観測した。また、1999年に歌会始の召人となるなど文人としても優れ、自叙伝5冊とともに多くの文章や和歌を残した。
「天文月報」追悼記事
http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/2013_106_04/106_278.pdf
オリオン座のベテルギウスは太陽の約20倍の質量を持つM型の赤色超巨星で、脈動変光星の中の半規則型に分類されている。恒星の進化の最終段階にあり、寿命が終わるとⅡ型超新星爆発を起こすと考えられている。ベテルギウスは1等星の中でも明るい目立つ星(Vバンドで0.4等程度)であったが、2019年秋より暗くなりはじめ2020年2月10日頃に約1.6等となり、この100年間では最も暗い状態の一つとなった。このため、冬の大三角が容易にそれと同定できない状態になったが、2月13日頃に減光が止まり明るくなりはじめた。5月10日時点では減光前の明るさに戻ったが、2020年秋以降は0.7等程度になっている。この現象が、ベテルギウスが間もなく超新星爆発を起こす兆候かどうかは分かっていない。
右の下段二つの図に関連するサイト
アメリカ変光星観測者協会(AAVSO)ホームページ: https://www.aavso.org/
Light Curve Generator 2 (LCG2): https://www.aavso.org/LCGv2/
ベテルギウスを覆う塵のベールのイメージ動画(提供:ESO/L. Calçada)
https://www.youtube.com/embed/w4CLztulAnY
ベテルギウスの明るさ変化の動画(提供:ESO/M. Montargès et al./L. Calçada)
ベテルギウスの明るさ変化の動画(提供:ESO/M. Montargès et al./L. Calçada)
https://www.youtube.com/embed/JSlTTGZcv00
1. 大型シノプティック・サーベイ望遠鏡(Large Synoptic Survey Telescope: LSST)のこと。ベラ・ルービン天文台を参照。
2. ベラ・ルービン天文台が2023年から10年間行う、時空間レガシーサーベイ(Legacy Survey of Space and Time: LSST) のこと。
