ニュートン
よみ方
にゅーとん
英 語
Newton, Sir Issac
説 明
サー・アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton;1643-1727)はイギリスの物理学者、天文学者、数学者。その著作「プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)」は近代科学の手本となり、万有引力の発見によって、天体の運行の根本的機構を説明した。
イギリスのリンカンシャー、ウルスソープの農家生まれ。誕生前に父を亡くし、母の再婚によって祖母に育てられた。1661年、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学、アイザック・バローに数学や光学を学んだ。在学中から数学を始め、流率法(微積分)や万有引力の着想を得、1665年の卒業後にペストが流行したことから、1666年までウルスソープへ帰り、思索を深めた。その後、ケンブリッジ大学へ戻り、1667年にトリニティー校の講師となった。1669年には、バローの後任としてルーカス教授職につき、光学について講義を行なった。1687年にハレーの勧めもあり、「プリンキピア」を著した。プリズム分光によって光学と色彩論の研究をして、単レンズ由来の色収差がない反射望遠鏡(ニュートン式望遠鏡)を製作、その功績によって1672年に王立協会の会員となっている。光と色の研究では、ニュートン環の発見、色の分解と合成の扱いなどを含む「光学」を1704年に出版した。
ニュートンは著作「プリンキピア」において「われ仮説をつくらず(”Hypotheses non fingo”)」と宣言し、あくまで観測できる物事の因果関係のみを示すという立場(実証主義)をとっている。その後、ニュートンの力学は、フランスとドイツで発展させられて壮大な天体力学となった。彼の時代はイギリス革命の時期にあたり、1688年には大学を代表して議会にも参加した。錬金術の化学実験も熱心に行ない、原子についても宇宙と同様に突きとめようとしたが、論文にはなっていない。1699年に造幣局長官、1703年に王立協会会長に選出され、1705年には自然哲学の業績に対して、ナイトの称号(サー)を授けられている。生涯独身であり、死後国葬をもってウェストミンスター寺院に葬られた。
科学の分野では偉大な功績を挙げているが、ニュートンは我が強く、気難しくて偏屈な一面があったとされ、微積分の先取権をめぐってはドイツのライプニッツと、万有引力のアイデアの先取権をめぐってはロバート・フックと激しく争った等の記録がある。
現在のSI 国際単位系における力の計量単位であるニュートン(記号;N)は彼の名にちなんでいる。なお、生誕日はグレゴリオ暦では1643年1月4日、ユリウス暦で1642年12月25日、死没日はグレゴリオ暦では1727年3月31日、ユリウス暦で1727年3月20日である。
2024年02月11日更新
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