天文学辞典 :ASJ glossary of astronomy | 天文、宇宙、天体に関する用語を3300語以上収録。随時追加・更新中!専門家がわかりやすく解説します。(すべて無料)

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非対称コマ分子

対称コマ分子を参照。

ウィリアム・ハーシェル(William Herschel;1738-1822)はドイツ出身のイギリスの天文学者。天王星を発見し、宇宙の構造を実測して近代天文学をひらいた。赤外線を発見したことでも知られる。

ドイツのハノーバーで、軍楽隊員の子として生まれ、自身もまた軍楽隊員となる。1757年、イギリスに移ってバースの楽団の指揮者、教会のオルガン奏者となり、交響曲も作曲するなど、音楽家として大成している。1772年頃から光学や天文学に興味を持ち、自ら金属鏡反射望遠鏡を製作して天体観測を始めた。1781年、星計数法による掃天観測を行っているときに、後に天王星と命名される新惑星を発見、一躍時の人となった。その功績でイギリス国王ジョージ3世の王室付き天文官となった。星の計数観測で、望遠鏡の視野内に星が多く見える方向ほど星が遠くまで分布すると仮定して、1785年に「天界の構造」として恒星が凸レンズ状に分布する宇宙(現在でいえば天の川銀河)の姿を描き出した。掃天観測中に多数見つけた二重星と(約800)と星雲星団(約2500)もカタログ化している。観測の助手は妹のカロラインが務めた。望遠鏡の製作は400台におよび、最大のものは口径1.26 m、焦点距離12 m(40フィート)の経緯台式(40フィート望遠鏡)である。それらを用いて、土星天王星衛星を4つ発見した。

1786年にイギリスのスラウに移り住み、以後この地で生涯を過ごした。彼の家はオブザバトリー・ハウスと呼ばれ、1792年に息子のジョンが生まれ、1816年にはナイトに叙せられた。1820年にロンドン天文学会(後の王立天文学会)をジョンらと共に設立、初代会長にもなっている。

スイッチング観測の1つで、電波観測でよく用いられる。アンテナの主鏡は動かさずに副鏡またはビーム伝送系中の反射鏡を動かして主ビームの方向を変え、目的天体の観測点(ON点)とそこから少し離れて天体からの電波がアンテナのビームに入らない点(OFF点)を交互に観測する。ON点では天体からの電波に加えて大気や望遠鏡からの電波も受信されるが、OFF点では大気や望遠鏡だけの電波が受信され、天体からの電波は含まれない。したがってON点を観測したときの受信電波からOFF点を観測したときの受信電波を差し引くと天体からの電波だけを取り出すことができる。可動部分を小型化しやすいので高速切替が可能となり、大気放射や受信機の利得が変動するよりも速くON点とOFF点を交互に観測できるので、そのような変動の影響を受けにくい。また、ON点とOFF点の切り替え時間が短いことから、時間的な観測効率も高くできる。一方、主鏡の光軸中心から離れた点で切替を行うため、離角が大きいと光学的な収差によりビームパターンが変形し、差引がうまくいかなくなる恐れがある。これに対して、ビームの離角が小さなビームスイッチを用いて、離角方向に掃引観測したデータを後処理することで、ビームスイッチの利点を活かしたまま広い領域の観測を行う方法も一部の望遠鏡では実用化している。なお、副鏡を動かすビームスイッチは、副鏡チョッピングと呼ばれることも多く、サブミリ波観測や赤外線観測で用いられる。

サー・アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton;1643-1727)はイギリスの物理学者、天文学者、数学者。その著作「プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)」は近代科学の手本となり、万有引力の発見によって、天体の運行の根本的機構を説明した。

イギリスのリンカンシャー、ウルスソープの農家生まれ。誕生前に父を亡くし、母の再婚によって祖母に育てられた。1661年、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学、アイザック・バローに数学や光学を学んだ。在学中から数学を始め、流率法(微積分)や万有引力の着想を得、1665年の卒業後にペストが流行したことから、1666年までウルスソープへ帰り、思索を深めた。その後、ケンブリッジ大学へ戻り、1667年にトリニティー校の講師となった。1669年には、バローの後任としてルーカス教授職につき、光学について講義を行なった。1687年にハレーの勧めもあり、「プリンキピア」を著した。プリズム分光によって光学と色彩論の研究をして、単レンズ由来の色収差がない反射望遠鏡ニュートン式望遠鏡)を製作、その功績によって1672年に王立協会の会員となっている。光と色の研究では、ニュートン環の発見、色の分解と合成の扱いなどを含む「光学」を1704年に出版した。

ニュートンは著作「プリンキピア」において「われ仮説をつくらず("Hypotheses non fingo")」と宣言し、あくまで観測できる物事の因果関係のみを示すという立場(実証主義)をとっている。その後、ニュートンの力学は、フランスとドイツで発展させられて壮大な天体力学となった。彼の時代はイギリス革命の時期にあたり、1688年には大学を代表して議会にも参加した。錬金術の化学実験も熱心に行ない、原子についても宇宙と同様に突きとめようとしたが、論文にはなっていない。1699年に造幣局長官、1703年に王立協会会長に選出され、1705年には自然哲学の業績に対して、ナイトの称号(サー)を授けられている。生涯独身であり、死後国葬をもってウェストミンスター寺院に葬られた。

科学の分野では偉大な功績を挙げているが、ニュートンは我が強く、気難しくて偏屈な一面があったとされ、微積分の先取権をめぐってはドイツのライプニッツと、万有引力のアイデアの先取権をめぐってはロバート・フックと激しく争った等の記録がある。

現在のSI 国際単位系における力の計量単位であるニュートン(記号;N)は彼の名にちなんでいる。なお、生誕日はグレゴリオ暦では1643年1月4日、ユリウス暦で1642年12月25日、死没日はグレゴリオ暦では1727年3月31日、ユリウス暦で1727年3月20日である。

 

日本で最初のX線天文学 衛星として、1979年2月にM-3Cロケット4号機で打ち上げられ、1985年4月まで観測を続けた。すだれコリメータを搭載し、広い視野X線源の位置を特定することが可能で、X線バースターの研究などに成果を挙げた。
ホームページ: http://www.isas.jaxa.jp/missions/spacecraft/past/hakucho.html

太陽表面にあって温度が約4000 Kと低い(光球の温度は約6000 K)ために暗く見える構造。中心部で特に暗い暗部と、その周囲の半暗部と呼ばれる比較的明るく、筋状の構造を示す領域とに分かれる。典型的には光球で数千ガウスの磁場を持ち、これが対流運動を抑えてエネルギー輸送を妨げるために、低温になると考えられている。半暗部にはエバーシェッド流と呼ばれる外向きの流れも存在している。 黒点は太陽内部から浮上して来た磁束管がギリシャ文字のΩのように光球から顔を出したときの断面だと考えられており、実際に極性の異なる一対として観測されることも多いが、磁束管がバラバラになってしまえばこれは必ずしもはっきりしない。対になって現れた黒点の、自転の向きに関して前に位置しているものを先行黒点、後ろに位置しているものを後行黒点といい、両者では先行黒点の方が赤道寄りに位置することが知られている(ジョイの法則)。このほか、両者の極性や出現緯度が太陽周期活動に伴ってどう変わるかに関して、ヘール-ニコルソンの法則が知られている。上述のように対になって現れる場合に限らず、黒点は複数個が同時に現れることも多く、これは黒点群と呼ばれる。ただし、出現頻度の統計を取る場合には、単独で現れた黒点も「個数1の黒点群」とするのが普通である。

大質量星生成領域でよく検出される高温の分子雲コア(高密度分子ガス塊)のこと。典型的な温度、密度、サイズ、光度は、それぞれ数百 K、>107 cm-3、 <0.1 pc、104-106 L である(L は太陽光度)。アンモニアNH3, シアン化メチルCH3CN, メタノールCH3OH をはじめとして、ジエチルエーテル CH3OCH3 やシアン化エチル CH3CH2CN などの大型有機分子を含むさまざまな分子種による輝線放射が顕著に見られる。
ホットコアは中心星の進化とともにコンパクト電離水素領域に進化すると考える説もある。OBアソシエーションも参照。

チューリッヒのウォルフ(R. Wolf)が考案した太陽全面に現れる黒点により太陽活動を表す指標。ウォルフ数(Wolf number)、国際黒点数(international sunspot number)とも呼ばれる。黒点相対数Rは、観測方法、観測装置性能、および観測者の個人差を補正するための係数をk、黒点群数をg, 全黒点数をsとすると、R = k(10g + s)と定義され、1日の観測より求められる。ウォルフ数は太陽磁気活動が低下して黒点がほとんど観測されなかったモーンダー極小期(マウンダー極小期ともいう)を除けば、約11年の周期で増減する。この太陽活動周期は、ドイツのシュワーベ(H. Schwabe)が1843年に黒点数の増減より発見している。黒点相対数は長らくチューリッヒのスイス連邦天文台により編纂されていたが、1981年よりベルギー王立天文台に移行している。

彗星が太陽に近づいた時に観測される、彗星頭部が明るく拡散状に広がった領域。中心にある彗星核から放出されたガスとダストで構成される。英語のコマ(coma)はギリシャ語で「かみのけ」を意味する言葉に由来する。彗星自身をコメット(comet)と呼ぶゆえんでもある。ガスの数密度が高い彗星核の近くでは、ガスとダストが一体となった流体として振る舞うが、ガスの密度が低い外側ではガスとダストは分離して運動する。まれに、彗星大気と呼ばれることもある。コマのガス(C2、CNなどのラジカル成分を含む)の地上観測(電波、赤外など)から、彗星の揮発性成分の組成が求められている。汚れた雪玉モデルも参照。

表面に液体の水が相当程度存在する惑星。しばしば地球の別称として「水惑星地球」のように用いられる。惑星科学的見地からは、水惑星ができるためには3つの条件が必要である。
1. 惑星が材料としてH2O(固相、液相、気相を問わず物質としての水)を取り込むこと、あるいは水素と酸素を取り込みH2Oができる条件を備えていること
2. そのH2Oが表面に出てくること
3. 惑星表面のH2Oが液体の状態になること
である。1. は惑星の形成過程に、2. と3. は惑星の進化に関係している。

圧電効果を参照。

木星以遠の惑星では衛星の主成分が氷となる。このような衛星を氷衛星と呼ぶ。氷の量が多くなくても天体表面が氷で覆われていれば氷衛星と呼ぶ。木星の衛星エウロパは表層は氷に覆われていて地下海があると予想されているが、天体の質量に対する氷の質量は海の部分を加えても1割ほどである。冥王星カイパーベルト天体の衛星も広い意味では氷衛星と呼ぶことができる。氷天体は、直径が400 kmを越えると自己重力のため変形して球体になる。直径500 kmほどの土星の衛星エンセラダスや天王星の衛星ミランダはほぼ球形であるが、土星の衛星ハイペリオンは球からはずれた扁平な形状(360×280×220 km)をしている。観測されている氷衛星の密度は1000 kg m-3程度のものから、エウロパの3010 kg m-3までさまざまである。これは岩石成分と氷の質量比や氷の成分が反映されている。

氷を主成分とする惑星。表面は氷か海に覆われている。太陽系では冥王星準惑星となったため、厳密な意味での氷惑星は現在は存在しないが、太陽系外惑星には氷惑星は数多く存在すると考えられている。海王星天王星は水素とヘリウムを5-10%含むガス惑星であるが、天体の主成分はH2Oを主体とする氷成分であるので、氷惑星と呼ぶことがある。

圧電効果を参照。

天球上で太陽近傍を中心に黄道面(地球軌道面)に沿って観測される淡い光の帯。よく晴れた春の夕方の西の空、あるいは秋の早朝の東の空で観測しやすい。黄道面付近には彗星からの放出や小惑星同士の衝突で生成されたダストがただよっており、それらによって太陽光が散乱されたものが黄道光である。太陽近傍ではダストの数密度が高く散乱効率が高いため明るい。一方、太陽と正反対の方向でも、太陽光が入射方向に散乱されるので散乱効率が高いため明るくなり、対日照として見える。これら散乱光とは別に、ダスト自体が発する熱放射も赤外線波長領域では観測され、黄道放射と呼ばれることがある。

星がいつ頃、どのくらいの金属量のガスからどのくらいの量で生成されたかという星形成の歴史のこと。星生成史ともいう。1つの星団や1つの銀河に対して考える場合が多いが、宇宙全体を対象とする場合もある。銀河や星団の星形成史の研究には二つの手法がある。
一つは、近くから遠くまでさまざまな距離(赤方偏移)にあるこれら天体の星形成率を観測から求めて、それを時間(ルックバックタイム)の関数として表す方法である。これは同じ天体の星形成史を見ているわけではないが、同種の天体毎にグループ分けするなどしてさまざまな情報を引き出すことができる。最後に述べる宇宙全体の星形成史はこの手法で求められる。
もう一つの手法は、天体に現在存在している星に刻み込まれている過去の「化石情報」から星形成活動の歴史を引き出すことである。これは銀河考古学と呼ばれることもある。星形成史の研究ができる星団はほぼ銀河系天の川銀河)内のものに限られるため、星団の星形成史を調べるのはほぼこの手法に限られる。この手法では、銀河や星団の色、HR図金属量、個々の星の運動状態などの観測データを解析する。例えば、ケンタウルス座オメガ球状星団(ω Cen)のHR図には転向点が複数見られる(図1)。このことだけでも、この球状星団では過去に何度か星生成活動が急激に起きた時期があったことがわかる。
1980年代半ばまでには、ハッブル系列に沿った銀河の色の違いおよびバルジディスクの比は、星形成史の違いで大まかに説明できることが分かってきた。楕円銀河やS0銀河など早期型銀河は宇宙初期に活発に星を作り、時間とともに星形成活動が弱まってきた。一方、晩期型渦巻銀河では宇宙年齢を通じてほぼ一定の星形成活動が続き、不規則銀河ではむしろ現在に向かって星形成活動が高まってきた(図2)。
コンピュータによる恒星の進化の計算が進歩し、また観測技術が進歩するとともに星形成史の研究は大きく進歩した。星の進化の理論に基づいて、特定の金属量をもち同時に誕生した星の集団(Simple Stellar Population: SSPと呼ばれる)に対しては、誕生してから時間とともにどのような明るさとスペクトルを示すかを計算できる。従って、異なる時期に誕生したさまざまな金属量のSSPをコンピュータ内で作り、それらが銀河のなかにどのくらい含まれているかを仮定すれば、銀河全体としての明るさや色やスペクトルをコンピュータで合成できる。このコンピュータで合成されたスペクトルが観測されたスペクトルとよく合うように、組み込んだSSPに対する仮定を逐次近似的に修正することで、銀河の星形成史が推定できるのである(進化的種族合成法:種族合成法銀河進化モデルも参照)。スペクトルの比較の際には星間吸収の影響なども考慮する。図3にこのようにして求められた銀河の星形成史の例を示す。
近年は大規模な銀河サーベイがなされている。スローンデジタルスカイサーベイによって得られた多数の銀河サンプルに対して星形成史を推定し、ハッブル系列および銀河の星質量との関連を統計的に調べた結果を図4に示す。
また、近傍から遠方まで銀河の星形成率が観測から求まるようになって、第一の手法で宇宙全体としての星形成史も求められるようになった。宇宙の平均星形成率は、観測された銀河の星生成率をもとに、赤方偏移ごとに、その時点で宇宙にある全ての銀河の星生成率を推定して、単位となる共動体積(1立方メガパーセク)あたりの値にしたものである。宇宙における星形成は赤方偏移z=10ころから次第に活発になり、z=2のあたりでピークを迎え、現在に向かって弱まっている。ただし、星間吸収の見積もりは難しく、z>2にある銀河の星形成率が過少評価されている可能性はある。宇宙の星形成率の変化を赤方偏移の関数として表した図は、最初にそれを提案したマダウ(Piero Madau)にちなんでマダウ・プロットと呼ばれる。

黄道光を参照。

相対論的な時空における因果関係を見やすくするために、光の世界線の傾きを常に ±1 に保ったまま
無限遠方を有限の距離に縮めた時空図。ペンローズ図から時間的世界線によって到達できる無限遠(未来、および過去時間的無限遠 I +I -)、光の世界線によって到達できる無限遠(光的、あるいはヌル無限遠 J+J)、空間的世界線によって到達できる無限遠(空間的無限遠 I 0 )という3種類の無限遠が存在することが一目瞭然にわかる。

単位時間あたりに新たに生まれる星の量のこと。星生成率ということもある。

星形成率は通常、1年あたりの星の質量 [My1] の単位で表される(M は太陽の質量である)。生まれたての高温の星が放射する紫外線の強度や、その紫外線によって電離された周囲のガス(HII領域)から放射される水素や酸素の輝線の強度などによって推定することができる。紫外線や輝線が、星形成領域などに存在するダストによって強く吸収される場合には、推定値の不定性が大きくなるが、そのような場合は、紫外線を吸収して暖まったダストが、赤外線領域で熱再放射する強度を測定することによって推定できる。現在のわれわれの天の川銀河銀河系)では全体でおよそ数 My1 ほどであるが、10-1000 My1 という大きな値を持つ銀河もあり、スターバースト銀河などと呼ばれる。

離れた複数の望遠鏡からの光を干渉させて得られる干渉縞から、天体の光強度分布を再生あるいは推定する装置のこと。単一の望遠鏡口径で決まる角分解能回折限界)より高い角分解能を達成するのが目的である。最大で、望遠鏡間の距離(最大基線長)に対応する角分解能が得られる。望遠鏡の主鏡(開口)の複数の部分からの光を干渉させる装置も光干渉計の一種である。赤外線波長域も含まれる場合には光赤外線干渉計と呼ぶ。開口合成光遅延線も参照。