ブラーエ
よみ方
ぶらーえ
英 語
Brahe, Tycho
説 明
デンマークの天文学者(1546-1601)。デンマークの有力な貴族家系の子として育ち、コペンハーゲン大学、ライプチヒ大学、ロストック大学、アウグスブルグ大学などヨーロッパ各地の大学で学んだ。コペンハーゲン大学時代に天文学に興味を持ったと言われている。ライプチヒ大学時代の1563年に彼は、木星と土星の合を観測し、この合の予測が、13世紀に作成された『アルフォンソ表』と13日ずれており、コペルニクスモデルによって作られたより近代的な『プロシャ表』でも2日ずれていることに気づき、精密な観測とそのための装置開発が必要なことを悟った。
1572年にカシオペヤ座に新しい星(nova stella)が現れ、これをティコは新星(Nova)という語で呼んだ。これは今日いう超新星であったが「ティコの新星」(SN1572)と呼ばれている。ティコの新星は昼間でも見える明るさで、彼は小型の六分儀を用いてこの新星を朝方と夕方観測し、月のように視差が検出できなかったことから、月よりもずっと遠くで起きた現象であることを突き止めた。さらに1577年に現れた大彗星の視差の観測から、この彗星は月より遠いことを示した。こうして彼はこれらが大気圏外の天体であり(彗星は大気現象と考えられていた)、恒星天の不変性というアリストテレス的考えが誤りであることを示した。
1575年、デンマーク王のフレデリック2世はティコに直轄王領地であったフベン島(ヴェン島)とそこに作る天文台の建設資金を与えた。ティコは「天の城(ウラニボルグ;ウラニボリと表記されることもあります)」と呼ぶ天文台を作ってそこで学生や弟子達と天体観測をした。後にはその隣に「星の城(ステルンボルグ)」と呼ぶ地下観測施設も作った。1588年にフレデリック2世が亡くなると、ティコの宮廷内での力は次第に衰え、ついに亡命を余儀なくされた。フベン島の彼の施設は徹底的に破壊された(近年発掘が進み、2005年からティコの天文博物館として公開されている)。1599年に彼は神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の後援を得て、宮廷天文学者としてプラハへ移った。そこでドイツのケプラーを助手として招いたが、その1年半後にティコは54歳で急死した。
ティコは、天体望遠鏡が発明される以前の天体観測者としてもっとも精度の高い観測を行った。またそのために数多くの観測機械を考案・改良した。その多くは失われたが、1598年の彼の著書『新天文学の観測機械(Astronomiae Instraurate Mechanica』に詳細な記録が残されている。ティコの宇宙体系は地動説(太陽中心説)と天動説(地球中心説)の折衷的なものであった。一番外側に恒星の分布する球殻状の恒星天があり、その中心に地球があり、地球の周りを月と太陽が公転しており、惑星は地球ではなく太陽の周りを公転している。「不動の大地」という概念を棄てられなかったのは、彼の高精度な観測を持ってしても恒星の年周視差を観測できなかったことによるといわれている。しかし彼の長年に亘る精密な観測データがあったからこそケプラーは楕円軌道による惑星の運動法則(ケプラーの法則)を発見することができたのである。
2023年01月30日更新
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