ケプラー
よみ方
けぷらー
英 語
Kepler, Johannes
説 明
ドイツの天文学者(1571-1630)。シュトゥットガルト郊外の自由都市バイル・デア・シュタット出身のプロテスタント。チュービンゲン大学で地動説を学び、熱烈なコペルニクス説の支持者になった。コペルニクス(Nicolaus Copernicus)が発見した、公転周期が大きな惑星ほど軌道半径も大きいという宇宙を支配する調和の法則を探求した。グラーツ大学で数学と天文学を教えるようになり、1596年に最初の著書『宇宙誌の神秘』を出版し、正多面体の組み合わせによる惑星軌道の理論を展開した。
1599年に神聖ローマ帝国の宮廷天文官であったティコ・ブラーエ(Tycho Brahe)の招きでプラハに移り住み彼の助手となった。ティコの死後、ケプラーは宮廷天文官の地位を引き継いで彼の長年にわたる高精度の火星観測データを解析し、惑星は円ではなく楕円運動をすることを発見し、惑星運行に関する重要な三つの法則(ケプラーの法則)を発見した。1609年の『新天文学』に第一と第二法則が、1619年の『世界の調和』の中に第三法則が述べられている。彼の楕円軌道論に基づく惑星表『ルドルフ表』(1627年)の誤差は太陽直径の1/3(10分角)で、コペルニクスによる惑星表『プロシャ表』より30倍も精度が高かった。また、ケプラーが1611年に発表した『屈折光学』には、屈折の法則、レンズの結像原理、実像と虚像、焦点距離と倍率など現代のレンズ光学の基本概念が議論されている。ケプラーは近代光学の基礎を築いたとも言える(ケプラー式望遠鏡も参照)。
ケプラーは40年間にわたるティコの精密な観測データを手に入れたかったが、ティコは生前にはそれを決してケプラーに渡そうとしなかった。ケプラーがプラハでティコの助手になったわずか1年半後にティコは54歳で急死した。このような背景から、ケプラーによって毒殺された可能性が議論されたことがある。1901年に彼の墓を掘り返して死因を調べた時に取り出したティコの口ひげが、1996年に粒子線による微量元素分析にかけられ、高濃度の水銀が検出されたと報告されたからである。しかし、2010年に再び彼の墓を掘り返す慎重な調査が行われ、調査チームは2012年に、毒殺を実証するのに十分な水銀あるいは他の毒物は検出されなかったと報告した。ケプラーの疑いは晴れたが、ティコとケプラーは友好的に共同研究を行ったという単純な話ではないと推測される。
2022年04月19日更新
この用語の改善に向けてご意見をお寄せください。
受信確認メール以外、個別のお返事は原則いたしませんのでご了解ください。