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ドレーパー,ヘンリー

 

よみ方

どれーぱー,へんりー

英 語

Draper, Henry

説 明

ヘンリー・ドレーパー(Henry Draper; 1837-1882)はアメリカの天文学者。ジョン・ウィリアム・ドレーパーの息子。天体写真と写真分光学の開拓者として知られる。バージニア州で生まれたが2歳の時に一家でニューヨークに移り住んだ。父親の影響で早くからアマチュア天文家として天体写真の撮影をしていた。
1857年わずか20歳のときにニューヨーク大学医学部を卒業、後に同学部の教授および学部長に就任した。19歳で医学部卒業資格を得たが、20歳にならないと卒業できないという規定があったため、兄とヨーロッパ歴訪の旅に出て、アイルランドのロス卿の天文台を訪問した。このとき巨大な望遠鏡リバイアサンに感動して、「これほど大きくなくとも、アメリカで一番大きな望遠鏡を作り写真術と天文学を結びつけたい」と考えたと述べている。
以後、医師としての仕事の傍ら望遠鏡による天体写真観測の研究に励んだ。1863年には口径40 cm、1872年には口径71 cmの望遠鏡を製作した。観測は父親の購入したヘイスティングス・オン・ハドソン村に作ったヘイスティングス天文台で、妻のアンナ・ドレーパーの協力を得て行った。1872年には71 cm望遠鏡にプリズム分光器をつけてベガを観測し、吸収線が写った恒星スペクトルの撮影にはじめて成功した。その後100個以上の星のスペクトルを撮影した。1880年には高感度のゼラチン・ブロマイド乾式乾板を用いて淡いオリオン大星雲の写真撮影に成功し、輝線スペクトルも観測した。
1882年冬にロッキー山脈へ狩猟旅行に出かけて遭難しかかったことがもとで、帰宅後急性肋膜炎となり45歳で夭折した。彼の死後、彼が撮影した多数のスペクトル写真乾板を知り合いであったハーバード大学天文台の台長であったピッカリング(E.C. Pickering)が預かり、測定して結果を出版した。父のジョン・ドレーパーも亡くなったので、ヘイスティング天文台跡地にヘンリーを記念する研究所を設立したいと考えていたアンナ未亡人は、ピッカリングに設立をまかせられる人の紹介を頼んだ。その計画はうまく行かなかったが、それが縁となり、北天の星の大規模なサーベイ観測を計画していたピッカリングがアンナ未亡人に援助を頼んだ。アンナはヘイスティング天文台の望遠鏡と分光器とともに数十万ドルの資産をこの計画に寄付して支援した。その最初の成果が10,351個の恒星スペクトルの分類を記載した『ドレーパー星表』(1890, 1897)である。ここではまだスペクトル分類は粗い初期のものであった。その後さらにハーバード大学天文台では多数の星のスペクトル撮影と新たな分類法の開発のための大規模なプロジェクトが行われた。その結果、22万5千個以上の恒星に対して、新たなスペクトル分類であるハーバード分類によるスペクトル型を記載した『ヘンリードレーパー星表』が1918-1924年にかけて出版された。このカタログ掲載の恒星は、HD 172167のようにHDに続く掲載番号で識別される。

2022年01月14日更新

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    ドレーパー,ヘンリー
    ヘンリー・ドレーパー
    出典
    http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Draper
    ヘンリー・ドレーパー・カタログの第一巻。
    出典 https://www.lindahall.org/mary-anna-palmer-draper/
    “Courtesy of The Linda Hall Library of Science, Engineering & Technology”