ブラーエ
よみ方
ぶらーえ
英 語
Brahe, Tycho
説 明
ブラーエ(Tycho Brahe;1546-1601)は16世紀のデンマークの天文学者。当時としては革新的に高い精度の天体観測を行ない、そのデータは「ケプラーの法則」を導いた。
デンマークの有力な貴族家系の子として育ち、コペンハーゲン大学、ライプチヒ大学、ロストック大学、アウグスブルグ大学などヨーロッパ各地の大学で学んだ。コペンハーゲン大学時代に天文学に興味を持ったと言われている。ライプチヒ大学時代の1563年に彼は、木星と土星の合を観測し、この合の予測が、13世紀に作成された『アルフォンソ表』と大きくずれており、コペルニクスモデルによって作られたより近代的な『プロシャ表』でも数日ずれていることに気づき、精密な観測とそのための装置開発が必要なことを悟った。1566年、従兄弟との剣の決闘で鼻の一部を失い(二人は後に和解している)、生涯真鍮製の付け鼻をしていたと言われている。
1572年にカシオペヤ座に昼間でも見えるほどの星が現れた。これは今日の超新星であったが、ブラーエは新星(Nova)と呼び、小型の六分儀を用いて朝方と夕方観測し、月のように視差が検出できなかったことから、月よりもずっと遠くで起きた現象であることを突き止めた。1573年に、観測記録を合わせて『新星について』(De Nova Stella)を出版、天文学者として有名になった。さらに1577年に現れた大彗星の視差の観測から、この彗星は月より遠いことを示した。こうして彼はこれらが大気圏外の天体であり(彗星は大気現象と考えられていた)、恒星天の不変性というアリストテレス的考えが誤りであることを示した。
1576年、デンマーク王のフレデリック2世はティコに直轄王領地であったヴェーン島(フベン島)と、そこに作る天文台の建設資金を与えた。ブラーエは「天の城(ウラニボルグまたはウラニボリ)」と呼ぶ天文台を作り、学生や弟子達と天体観測を始めた。後にはその隣に「星の城(ステルンボルグ)」と呼ぶ地下天文台も作った。1588年にフレデリック2世が亡くなると、宮廷内での力は次第に衰え、1597年についに亡命を余儀なくされ、1599年に神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の後援を得て、宮廷天文学者としてプラハのベナテク城で研究活動を続けることになった。そこでドイツのケプラーを助手として招いたが、その1年半後の1601年に54歳で急死した。
ブラーエは、天体望遠鏡が発明される以前の天体観測者として、もっとも精度の高い観測を行った。またそのために数多くの観測機械を考案・改良した。その多くは失われたが、1598年の著書『新天文学の観測機械』(Astronomiae Instraurate Mechanica)に詳細な記録が残されている。半径が1.8mの四分儀の目盛部分にはダイヤゴナル目盛が使われ、最小目盛以下の数値が読みとられた。1000個以上の恒星の位置、太陽、月、惑星の観測を系統的に行ない、当時の古代ギリシャ伝承の観測天文学を革新した。
ブラーエの宇宙体系は地動説(太陽中心説)と天動説(地球中心説)の折衷的なもので、コペルニクスの太陽中心説の反対論者であった。1588年に刊行された『天体の新現象』(Astronomiae Instauratae Progymnasmata)の宇宙モデルでは、一番外側に恒星の分布する球殻状の恒星天があり、その中心に地球があり、地球の周りを月と太陽が公転しており、惑星は地球ではなく太陽の周りを公転している。「不動の大地」という概念を棄てられなかったのは、彼の高精度な観測を持ってしても恒星の年周視差を観測できなかったことによるといわれている。しかし、彼の長年に亘る精密な観測データがあったからこそ、ケプラーは楕円軌道による惑星の運動法則(ケプラーの法則)を発見し、その理論を基にした惑星表『ルドルフ表』(Rudolphine Tables)を1627年に刊行することができたのである。
2024年02月23日更新
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