アインシュタイン
よみ方
あいんしゅたいん
英 語
Einstein, Albert
説 明
アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein; 1879-1955)はドイツ生まれのユダヤ系アメリカ人物理学者。ガリレオ、ニュートンとともに宇宙観の形成に大きく貢献し、20世紀最大の科学者とも称せられる。
チューリッヒ工科大学(当時)を1900年に卒業後、臨時教師として働き、後ベルンの特許庁に勤めた(1902〜1909)。この間に重要な研究が相次ぎ、1905年に三つの重要な論文が発表された(「奇跡の年」とも言われる)。一つはプランクの光量子に関するもので、そのエネルギーが振動数に比例することが古典的な電磁気学や熱力学の理論と矛盾するように思われていたことに対し、アインシュタインは光に量子の性質を与えることで説明した。これによって、光電効果が素直に解釈できるようになった。二つ目は特殊相対性理論で、物理法則がどの基準系においても同じ形式になること、および、光速度はどの基準系でも同じ値であることの2点を要請し、古典的な運動ならびに電磁場の相対性を解釈し直した。また、1905年末には質量とエネルギーが等価であることを示した。これらにより、長年の論争の対象であったエーテル仮説を捨て、マイケルソン‐モーリーの実験ならびにフィッツジェラルド‐ローレンツ収縮を新たに説明することができた。三つ目の論文は統計力学に関するもので、ボルツマンやギッブスによって研究された分野を発展させ、ブラウン運動を説明した。
その後、量子論への重要な貢献を行ない、特殊相対性理論を加速度を含む形式へ発展させようとした。1907年、重力による加速度と力学的な加速度を区別することはできないという等価原理を発見、後の一般相対性理論の基礎となった。1908年にベルン大学の講師、1909年にはチューリッヒ大学の教授になった。1911年、太陽近傍をかすめて通る遠方の星の光は太陽の重力で曲げられることを予言した。これは、アインシュタインの重力理論の実験的検証につながるもので、重要な研究だった。1912年頃、アインシュタインの重力の研究は、グロスマン、レビ・チビタ、リッチ・カルバストロなどの数学者の助けを借りて、新しい段階へ入った。彼はその重力理論を一般相対性理論と呼んだ。1914年ドイツに戻り、プロシャ科学アカデミーの研究職およびベルリン大学教授を兼務した。また、カイザー・ウィルヘルム物理学研究所の所長職も兼務し(1914〜1933)、1915-16年に一般相対性理論の一連の論文を出版した。この中には重力波の存在も予測されており、2015年9月に米国の重力波検出器「LIGO」が世界で初めて重力波を検出した際には、「アインシュタインからの最後の宿題が100年ぶりに解かれた」と話題になった。
1919年、イギリスの日食観測隊が太陽縁辺での光線の屈曲を確認し、一躍世界のマスコミの寵児となる。1921年、初めてアメリカを訪問した際には講演会にあふれんばかりの聴衆が集まった。同年、光電効果の研究によりノーベル物理学賞を受賞したが、1922年の日本訪問の途上にあったため、授賞式には欠席した。1922年パリ、1923年パレスチナを訪問し、1924年波と物質との統一に関する研究を行なってから、1925年南米を歴訪。1926年イギリス天文協会のゴールドメダルを受賞した。
1927年ソルベー会議で、ボーアと量子論をめぐっての有名な論争が行なわれた。彼は、コペンハーゲン流の波動関数の確率解釈に反対した。1932年、アメリカのプリンストン大学滞在中、ドイツでナチスが台頭したため帰国を断念し、以後アメリカにとどまり、1940年帰化した。プリンストン高等研究所では物理法則の統一化を目論んだが、成功することなく1955年、入院先のプリンストン病院で死去、満76歳であった。アメリカの原子爆弾開発は、アインシュタインからルーズベルト大統領へ宛てた、ドイツの核兵器開発の危険性を訴える手紙がきっかけになったといわれているが、彼は一貫して平和主義者であった。死後3ヶ月を経て、戦争の根絶や科学技術の平和利用などを訴えるラッセル-アインシュタイン宣言がバートランド・ラッセルにより発表されている。
ニューヨーク・タイムズによる追悼文
https://archive.nytimes.com/www.nytimes.com/learning/general/onthisday/000314onthisday_bday.html
ラッセル-アインシュタイン宣言
https://www.pugwashjapan.jp/russell-einstein-manifesto
2021年02月04日更新
この用語の改善に向けてご意見をお寄せください。
受信確認メール以外、個別のお返事は原則いたしませんのでご了解ください。