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コペルニクス

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よみ方

こぺるにくす

英 語

Copernicus, Nicolas

説 明

コペルニクス(Nicolaus Copernicus;1473-1543)は、古代からの地球中心の宇宙観に対し、太陽を中心とする宇宙体系(太陽中心説=地動説)を提唱し、近代天文学への道を最初にひらいたポーランドの天文学者。1473年、交易の町であるトルニ(トルン、現ポーランド)に裕福な商人の子として生まれた。10歳のときに父を失い、司教である伯父ルーカスの庇護を受けた。18歳でクラコフ(クラコウ、クラクフ)大学に入り神学を学び、22歳でフロムボルク聖堂の参与会員に就任、その後イタリアへ旅立ち、ボローニャとパドバの大学で哲学、法学、数学、医学、天文学、ギリシャ古典を学んだ。1503年にフェレーラ大学で教会法の学位を取り、10年間の留学生活を終えるが、この間に天文学を学ぶとともに、イタリアルネッサンスの思想を身に受けた。帰国後、ワーミア(ヴァルミア)司教地区の律修司祭(Canon)の職に就き、生涯その職を離れることはなかった。1510年にフロムボルクに移り、町の城壁の部屋に居を構え、天文学の研究と観測を行なった。それは今も「コペルニクスの塔」として残されている。主な職務は司教区の行政と、司教つきの医師としての仕事であり、その中で『貨幣鋳造の方法』(1517年)という経済学書も著している。

1510年頃に『コメンタリオルス』(Comentariolus)を執筆して、初めて彼の太陽中心説を明らかにした。この書は印刷されなかったが、筆写本が各地に伝わり、天文学者としての彼の名声が広がった。その頃にローマ教皇レオ10世が教会暦の改訂を天文学者に諮問したが、コペルニクスは、観測も理論も十分でないという理由で積極的には参加しなかった。1539年にビッテンベルクの天文学者レティクス(G.J. Rheticus)がフロムボルクを訪れ、コペルニクスに新理論の出版を促し、その概要を『第一解説』(Narratio Prima)として執筆、本論の出版を望む声が上がった。1541年頃にコペルニクスはいよいよ『天球の回転について』(De revolutionibus orbium coelestium)の執筆に着手し、レティクスがそれを清書原稿にしてニュールンベルクで印刷されることになった。印刷の監督は神学者オジアンダー(A. Osiander)の手に移り、1543年に出版にこぎつけた。しかし、その頃コペルニクスは病床についており、完成本を手にしたのは亡くなる寸前であったといわれている。本書の序文は無署名であるが、オジアンダーが書いたもので、「本書は数学的な仮説であり、現実の宇宙の姿を示すものではない」という趣旨の弁明が書かれている。コペルニクスがそれを読んだかどうかは明らかでない。

死後コペルニクスは埋葬されたものの、どこに埋葬されているのかは不明だったが、フロムボルクの大聖堂で2005年夏、遺骨が発掘された。2008年に、ポーランドのシュチェチン大学とスウェーデンのウプサラ大学とが共同で、コペルニクスのものとされる毛髪とのDNA鑑定を行い、この遺骨がコペルニクスのものと認定されている。

コペルニクスの数学的理論は、ギリシャ天文学を集大成したプトレマイオス(Ptolemaeus)の『アルマゲスト』を凌駕するものとして高い評価を得たが、太陽中心説の方は大きな反響を呼んだものの、多くの支持者を得ることはなかった。太陽中心説が新しい宇宙観として、また思想潮流としてヨーロッパ文明に受け入れられるのは、半世紀後のことである。

2024年02月22日更新

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    コペルニクス
    コペルニクスの肖像画(1580頃, 作者不詳)
    http://en.wikipedia.org/wiki/Nicolaus_Copernicus